防災・減災への指針 一人一話

2013年10月03日
情報を伝える事、得る事、共有する事を任務として
多賀城市役所 保健福祉部社会福祉課
片山 達也さん
多賀城市役所 市長公室
針生 美由紀さん

「遊び」を取り入れた避難訓練の効果

(聞き手)
 東日本大震災以外に、どのような災害をご経験されてきましたか。

(片山様)
1960年(昭和35年)のチリ津波の当時にはまだ生まれたばかりでしたし、宮城県沖地震は発生時に東京に住んでいましたので、どちらも経験しておりません。水害は何度か経験していまして、当時は福祉部門にいましたので災害援護担当として、市内を回って消毒する仕事をした事があります。
 東日本大震災に関してこれまでの震災の経験がどのように活かされたかとの事ですが、宮城県沖地震についてはかなりの確率で来るだろうと言われていましたので、各地域の区長さんや町内会の方たちと、大震災にどのように対応するべきか数年前から話をしていました。例えば、要援護者の名簿が地域で必要になるという話は平成18年頃からしていたので、翌々年までに保健福祉部門でそういう名簿の必要性を理解してもらって、区長までそれが行き渡る事が出来ました。ですが、それをどのように活かせばよいのかという事が地域の大きな課題でした。地域によって温度差があって、盛んな地域では色々な体制を作ろうとしたのですが、大地震が来るかもしれないという気持ちを持っていない地区があった事も事実でした。元々、日本人は、震災が来ても自分は被害に遭わずに済むと思っているところがあるかもしれません。反面、かなり防災に積極的な地区もあり、徐々に活動を始めるようにしていた時に、今回の震災がいきなり起きたので、各地区の状況をみると、これまでの災害の教訓はあまり活かされなかったように思います。
 ただ、その中で本当に対策を盛んに取り組んでいた地域はありました。志津川まで行ってチリ津波の事を勉強してきた区長さんがいて、自分の地区では津波が何分で到達する、集会所は海抜何メートルの位置にある、自分の歩調では集会所まで何分掛かる、そういった事を、大代北という地区ではまとめてあったのです。例えば、地区の防災訓練では遊びの要素を取り入れるようにしていました。つまり日頃から顔を見られるような関係を作るという事が大事だという事をさりげなくやってきたのです。また、クロスカントリーのように印をつけて、スマートフォンのGPSを使ってオリエンテーションを行ったりもしていましたが、実はそれは、震災があった時に自分の居場所を家族に伝えるための訓練だったのです。その事をわざと伝えないで訓練をしていて、これは凄い事だと思いました。いかにも「訓練」という事をしないのです。また、毎週月曜日に無線訓練をしていた鶴ヶ谷という地区では、連絡網がきちんと機能したなど、訓練が地域で活かされた所もありました。

(聞き手)
チリ津波地震の際は生まれたばかりという事でしたが、お母様からその当時のお話はお聞きになりましたか。

(片山様)
 母親は仙台にいましたので、津波の経験は全くありませんでした。塩釜に大津波が来たという事は写真や話で知っていましたが、実感は湧きませんでした。

(針生様)
 私は実家が七ヶ浜の塩釜湾付近なのですが、昔のチリ地震の時には庭まで波が来て、引いた後に魚が沢山打ち上げられていたという話を叔母から聞きました。宮城県沖地震の時には中学生でしたが、家に帰ったら非常に強い地震が来てテレビが落ちてきたり、食器棚から物が落ちてきたりで、その日は食べ物の確保ですぐに買い物に行くように言われました。
 昭和61年8月5日の水害の時には、私は保育所で働いていました。保育所に被害はありませんでしたが、そこに行くまでの道路は全く通れず、ボートが通っていました。腰まで水に浸かりながら国道を進みましたが、これ以上は危ないからと、警察の方に止められました。
 災害の教訓は、個人的には全く活かされていないと思います。地震に関しては来るかもしれないという思いでいました。七ヶ浜の住民にとっては、地震イコール津波という意識があるのです。沿岸部の方は特に、地震が来ると津波を心配して車を高台に動かすような事をします。それが普通の会話にあるので、多賀城と七ヶ浜でも意識の違いがあるのだと感じました。

(聞き手)
今回の東日本大震災が起きた時に、津波のイメージはすぐにつきましたか。

(針生様)
つきませんでしたが、これが宮城県沖地震だとは思いました。

(聞き手)
前年の2010年にチリ津波が来て、その時は多賀城に被害はありませんでしたが、今回は津波被害の事も考えておられましたか。

(片山様)
 2010年(平成22年)のチリ津波の際は休日でしたが、市役所まで出勤したところで津波警報が出ました。警報では津波は3メールほどと言われていました。災害対策本部会議をしていた時に避難勧告をどうするのかという事を、当時の交通防災課長がかなり悩んでいましたが、「もしここに大きい津波が来たらどうするのか」という事でもう一度協議した結果、初めて多賀城で避難指示を出しました。中には既に自主避難されている方もいました。避難所の開設も初めてで、砂押川や大代に様子を見に行っている人がいるというので危険だと広報しに行きました。しかし、実際に来た津波は50センチ程度で、警報ほどの大きさの津波が来ず、今回の大震災でも震災直後に大津波警報が発令されましたが、酷い津波は来ないだろうと思っていました。まるでイソップ童話のオオカミ少年の話のようですが……。

(聞き手)
津波が来る事の教訓として、2010年のチリ津波以降、変わった事はありますか。

(片山様)
 津波よりも、避難指示を出した時に何も出来なかった事が反省点です。以前、行動の方針を早くまとめないといけないという事になって、職員にも意見が求められました。それをまとめて、来るべき宮城県沖地震が来た時には津波よりむしろ避難所運営などに注力するべきではないかという事になり、そこで避難所運営マニュアルが出来ました。しかし、東日本大震災の時にはもうマニュアルは完成していましたが、見ていない職員がほとんどだったと思います。

(針生様)
 チリ津波の時は休日でしたが、私は大代地区の避難所担当班長でしたので、これはまずいと思い、すぐに避難所を開設しました。実際に自分が何をすればいいのかなどわからない中、どんどん住民の方は集まってきました。被害はさほどありませんでしたが、避難所となった小学校の校長先生が、体育館に暖房を出してくださったとはいえ、寒い時期で、皆さん寒そうにしていました。私たちからは帰っていいとは言えませんでしたが、ラジオなどから情報が確認出来ると、皆さんすぐにお帰りになられて、夜の8時には誰もいなくなっていました。
その時、避難された方は50人程度で、自分が乗ってきた車の中で待機し、避難所には入ってこない方もいました。

発災時の行動

(聞き手)
 発災直後にいらっしゃった場所と、その後の行動や対応についてお聞かせください。

(片山様)
 発災直後には地域コミュニティ課にいましたが、2回とも強烈な揺れでした。その時の事で覚えているのは、「揺れが収まったら自分のやるべき事をまず考えて」と部下に対して言った事です。電気が明滅していた時で、安全確保が出来たら写真を撮ってきてくれとも話しました。私たちの課では区長さんを担当する係があるので、区長さんの方に連絡する事とし、私はすぐに災害対策本部に向かい、必要な情報があったらホームページで流そうという話になりました。その後に情報がどんどん入るようになりましたが、その時に河北新報の当時の多賀城担当記者の方が来て、利府で死者が出たというお話を聞き、人が亡くなる地震だったのだと感じました。私のいた多賀城市役所の2階はそれほど揺れたとは感じませんでしたが、この一帯が全て揺れたという事は、自宅も相当被害を受けたのだと思いました。遠くにいた子どもたちの事が気になりましたが、子どもたちからすぐにメールが来て、安心して仕事に専念出来る気持ちになれました。
 ですが、災害対策本部は凄まじい状態でした。無線からは、津波が来たという叫び声が聞こえていました。広報で回っていた職員もいましたが、その人たちには逃げろという指示をこちらから出しました。どうやら砂押川が決壊したか越流したようだと話していましたが、まさかこんなに津波が来ていたとは誰も思いませんでした。そこで市役所の6階に上がって砂押川の様子を見ました。船が逆流していて本当に危険だと感じました。市役所は自家発電装置が動いていたので、そこでテレビの映像を見たら、ちょうど名取の様子が映されていて、恐ろしい津波が来ている事を知りました。

(聞き手)
対策本部にはどのくらいの期間いらっしゃったのでしょうか。

(片山様)
 ずっといました。私は、災害対策本部で起きた出来事を全て記録する事になっていました。何かをきちんと残さないといけないという思いがありました。
 発災直後、奈良市や太宰府市、天童市といった友好都市に電話を掛けたのですが、奈良市以外は繋がりませんでした。奈良市は不思議と、私の電話だけが繋がりました。私の電話に奈良市長さんが電話を掛けてくださって、それを多賀城市長に渡したりしました。次第に電話が通じなくなってしまったのでショートメールを使ったりしながら、とにかく支援をほしいと話したら、1万人、あるいは1万5千人分の物資支援を送ると言ってくださいました。こんな数をオーダーしても良いのかと思いながら、結局、3月13日の朝にはもう奈良から多賀城に物資が到着していました。全国のどこよりも早く支援物資を送ってくださいました。

(聞き手)
友好都市に連絡するというのはマニュアルで決まっていたのでしょうか。

(片山様)
 いえ、そのような取り決めはありません。ですが、「大丈夫ですか」という便りは今でもくれるのです。逆に向こうが台風の時にはこちらからも尋ねるようにしていますが、マニュアルには書いていません。
 電話が繋がったのは偶然なのですが、毛布1万枚や食糧何千食など、本当に頼んで良いのかと思いました。ですが在庫をありったけ送ると言われました。それから少しだけ遅れて、太宰府市さんも同じように対応してくださいました。

(聞き手)
その時のやり取りは覚えていますか。

(片山様)
 奈良市の課長がその時のメールを今でも取っておいているらしいのです。一番に「助けてください」とメールしました。その文面を見て、奈良市の皆さんは驚かれたそうです。緊急時にはシンプルにした方が良いと、お亡くなりになった多賀城市の前地域アドバイザーの加藤哲夫さんが言っておられた事なのです。なので、シンプルに「助けてくれ」としました。こちらではもう、そのメールは残っていません。

「災害を記録する」という任務

(聞き手)
 針生様はどちらにいらっしゃったのでしょうか。

(針生様)
 私は震災直後、課の方にいました。課長が大丈夫だとなだめる傍ら、積み上げていた書類が崩れていました。揺れは凄まじいものでしたが、何かあったら、私たちは記録をするのが仕事だという意識がありました。そこでまず、どのような被害が出ているのか、手分けして庁舎内の写真を撮りました。「写真など撮っている場合か」と言う職員もいましたし、後から市民の方にも言われましたが、それでも文化センターに避難する人の写真や、津波が来る前の写真なども撮りました。時間が経つにつれて、ずぶ濡れの人がどんどん市役所に来ました。市役所は避難所ではありませんが、皆さんやはり、市役所に来れば何かわかるのではないかという事で来られるのです。廊下にも市民の方がいらっしゃって、「子どもがここの保育所にいるのですが連絡は取れませんか」というような相談も受けるようになりました。やはり、市役所なら何とかしてもらえるか連絡が付けられると思って来られているのですが、どこがどうなっているのかわからず、残念ながらお答え出来ませんでした。本部にいた課長などはテレビで情報を見る事が出来たのかもしれませんが、私たちはそのような映像を見る事が出来ませんでした。私はその日は一晩中ラジオを付けて、流れてくる情報をメモし、掲示板のようなものを作りました。心配していた幼稚園の情報がラジオで流れてきたら、それを紙に書いてガムテープで掲示するなどといった事をしました。市役所に避難された方が避難所に移るまでの数日間は、写真を撮って記録に残すという本来の役目を果たす余裕がありませんでした。それが最大の反省です。広報広聴係として、今後に活かさなければいけないと思いました。

(片山様)
 私たちを、「記録する事」に専従させてください、本来の仕事に専念させてくださいと、3日後の朝に初めて言えるようになりました。3日後の朝に私たちの仕事は何だろうかと話し合いまして、本来の仕事をしようと考えたのです。そのために体制を変えねばいけないと思い、災害対策本部に話をしに行きました。おかげでホームページでの情報提供や、災害対策本部の記録がきちんと行えるようになりました。

(針生様)
 災害対策本部と地域コミュニティ課は、場所的に近い位置にあるので、人手が足りない時には声を掛けられて率先して動きました。その分、記録を残すという本来の仕事には気が回らなくなってしまいがちでした。市民の方が避難所に移った日に、自分たちの仕事は何なのかと課長に言われて、そこで初めて、記録を残すことが最優先だと気持ちが切り替わりました。

(聞き手)
 地域コミュニティ課の中で、震災の時に市役所付として残った方は何名いましたか。

(片山様)
7人です。11人中4人が避難所担当になりました。私は災害対策本部には会議がある時だけ顔を出すようにしました。震災後、間もなく、1階の正面受付に相談窓口を設ける事になって、それを担当する事になりました。先ほどの、自分たちの仕事に専念しようという事になるまで、受付や聞き取り調査、携帯充電サービスの整理券の配布など、何でもしました。

(聞き手)
そこから、どのように写真を撮り続けたのでしょうか。

(針生様)
 まず当日は、私ともう1人の職員とで二手に分かれて写真を撮りました。広報広聴係で残ったのが私を含めて3人だけでしたが、うち1人は完全にホームページ専属でした。ホームページ作成は集中して発信出来るように場所も移しました。
 各所に写真を撮りにも行きました。危ないから1人では行くなとは言われましたが、荷物が届いたから積み下ろしに行かなければいけないなど、すぐに人手が割かれてしまうのです。それでも写真を撮りたいので、「出かけてきます」と紙に書いて、1人で砂押川から大代付近まで歩いて写真を撮った事もあります。自家用車で行ける所まで行って、そこから歩いて写真を撮ってきた日もありました。行ける時にはとにかく出掛けました。他にも、災害情報誌を作って発信しました。

(片山様)
 避難所の名簿作成の手伝いや庁舎のチェックなども行いました。それも大事な事ではありますが、本来は記録するという仕事が必要なので、そうした手伝い業務は外してもらいました。それでもなお、「ここに調査に出掛けてくれ」と言われたり、「相談窓口の手伝いをしてくれ」と頼まれたり、「マスコミや視察を対応してくれ」などと頼まれましたが、その都度同じ事を何十回も言いました。

(聞き手)
3日目以降は、ある程度写真撮影を再開したのでしょうか。

(片山様)
写真だけでなく、広報活動全般を再開しました。ホームページも含めて、地域コミュニティ課にいる職員で頑張る事にしました。一部の職員は相談業務に行ったり、総合案内を手伝ったりしていました。

(聞き手)
 難しかった事は何でしょうか。

(針生様)
 例えば、携帯の充電をしたい人が集まって、充電の業務を若い職員に任せていても、そのついでに情報を確認しにくる方の質問には答えられない事がありました。総合窓口には、何を聞かれてもある程度仕分けが出来る人がいないといけないという事を、担当した職員が一番感じていました。

(聞き手)
様々な質問に答えられる人は一部しかいないのでしょうか。

(片山様)
 すべて答えられる人はいません。例えば、どこの銀行だとお金がおろせるか、といった相談があると自分で銀行の知り合いに電話を掛け、それを張り出すようにしていました。交通機関の状態を聞かれたら、テレビでその情報を見た職員が、「こういう状態だと報道されていました」と答えるしかありませんでした。むしろ、「何か知っている情報を教えてください」と聞く事もありました。すると携帯電話はあそこの陸橋を超えた辺りからなら繋がるというような情報を頂くのでそれを伝えますし、仙台の中央なら公衆電話が無料で使える、仙台までは高砂からバスが出ているというふうな情報を、相談に来る人に逆に教えてもらいました。陸の孤島とはこういう状況の事を言うのだと実感しました。

(聞き手)
ニーズを取り、情報も収集しながらそれを一緒に発信するという事でしょうか。

(片山様)
 そうです。他にも、どこの医療機関が空いているのか聞かれました。ですので、市役所で医療関係の担当部署である健康課には自転車で病院まで行って調べてくださいと頼んだ事もあります。
 それ以外にもガソリンが不足していました。私は宮城県石油組合に毎朝電話したのですが、向こうに「どこか開いているガソリンスタンドを知りませんか」と逆に聞かれるような状態でした。ですが、市民の方がわかっていた事もありました。浮島の気仙沼商会では人が並んでいたとか、体育館前のガソリンスタンドでは既に砂押川まで列が出来ているとか、ここはもう今並んでいる人だけで品切れだというふうな事をわかっているのです。多分関係者から情報を聞いていたのでしょうが、むしろこちらの方が何も答えられず、歯がゆい思いをしました。もしかしたら、嘘を教えてしまったのではないかとも思う事もあります。教えた情報と、実際の状況が食い違っていた事もあったかもしれません。

ホームページやマスコミの活用による情報発信

(聞き手)
 情報はリアルタイムで変化するものなので、事前準備は難しいと思いますが、顔を見られる関係の中で様々な情報を集約していく事が重要なのでしょうか。

(片山様)
 その通りです。災害対策本部で決まった事は、すぐには伝わってきません。窓口で電話して聞くとまだ決まっていないので、まだ決まっていないという事を市民の方にお伝えしたのですが、その後、少しして災害対策本部に戻ったらそれが決まっていた事もありました。災害対策本部が何を決めたのかわからないという声が職員から沢山あったので、そこでホームページ担当だった職員が、職員全員に一斉にメールを送るようにしようと提案した事などに繋がっていきました。
 一番良かったのは、ホームページをすぐに更新した事です。仙台に行けばウェブに繋げる事が出来たので、総務部長が全責任を引き受けて決断してくれて、仙台に住む職員の所から情報を発信しました。そうしたら大量の反応がありました。その職員にはNHKにも行ってもらい、多賀城の実態を話してもらったのですが、何も多賀城からの発信が無いので多賀城は無事なのだと思っていたと言われたそうです。その翌日からNHKの方が多賀城市文化センターに常駐するようになり、データやアンケートを取って、それを基本情報の一つとしていました。より被害が酷い沿岸自治体に移動するまでは多賀城にいましたが、それを見て今度は広島放送や福岡テレビ、西日本新聞など様々な所が取材に来ました。その分、多賀城の現状が伝わったので、支援も沢山頂けるようになりました。ホームページやマスコミを利用する事のメリットは大きいものでした。

(聞き手)
多賀城ではぶらさがりや囲み取材を受けるという事を、定期的にしていたのでしょうか。

(片山様)
 震災当時も、今もありません。議会前の定例記者会見だけで、その他は、各課でリリースしたい事があれば各担当が随時行うようにしています。ただし、震災当時は私たちが窓口だったので、まずここで対応して発信するスタイルを取っていました。
 囲みのやり方は取っていませんでした。窓口で受け付けて、市長室へ案内して市長がコメントを出したりしていましたが、こういう事をするので集まってくださいと言った事はありません。マスコミの皆さんは時間差で来られるので、本当はまとめて対応したかったのですが出来ませんでした。

「災害情報誌」を発行し、住民へ情報を提供

(聞き手)
広報などをされていて、事前準備するのはなかなか難しいのでしょうか。

(片山様)
 震災後に、課内の皆なで考えて工夫しました。情報を伝える事、得る事、共有する事が特に大事なので、発信するために電源が落ちても大丈夫なように、自家発電のコンセントを必ずキープしています。それと、月に1回以上、夕方5時以降に地震があった場合に備えて自家発電を用意し、買い揃えた衛星携帯でホームページを発信出来るような訓練もしています。後は、やはり紙が大事ですので、印刷出来るだけの分量を作業室にストックして、コピー機を必ず動かせるようにしておき、ある程度のフォーマットを考えておきます。もう一つ、具体的に動いている訳ではありませんが、友好都市の天童市から印刷機を借りる事も視野に入れています。ホームページや携帯電話の有効度が高かった事もあるので、それらからすぐに情報発信が出来る訓練はしておかないといけないと思っています。

(聞き手)
 災害情報誌を作成したとの事ですが、どれくらいの量を刷られたのでしょうか。

(針生様)
 非常電源が動いていたコピー機を使い、印刷しました。1号目を出したのが3月17日だったと思います。その後、6号まで発行しました。

(片山様)
 1号は1500部ほど刷ったと思います。ですが2万5千戸の全戸配布は絶対に不可能なので、とても悩みました。なるべく公正・公平・平等に、それでも伝わるところは伝えようと、避難所にも貼ろうという事で印刷しました。区長さんやボランティアの方にもお願いして、2号以降、徐々に配布範囲を広げていきました。

(針生様)
 市内の被災写真を入れて、A3刷りにして、津波被災地区以外の市民の方にも被災の状況を見て頂こう、同じ市内でもこんなに被害が出ているという事を、テレビなども見られないので知ってもらおうと思いました。西部地区に住んでいる方も揺れが酷くて大変だっただろうけど、津波被害のあった市内の様子を伝えるべきだと思い、区長さんに頼んで掲示板に貼ってもらったり、回覧出来る地区は回覧してもらったりしました。他にも避難所に貼ったり、市内を巡回する給水車に積んだりしてもらい、配布したのが災害情報誌の1号です。

(聞き手)
紙は足りなかったと思いますが、どのように紙を確保したのでしょうか。支援物資として紙をもらった事もあったのでしょうか。

(片山様)
市役所にあった紙を、すべて集めました。支援物資としては、最初はもらいませんでしたが、最後は広報を印刷している業者の方と連絡を付けました。

(針生様)
 2号目を作る時に、避難所にいた区長さんから、新聞は届いていたので新聞に折り込んだらどうかというお話をもらいました。折り込みは、ありがたい事に、すべて無料でして頂きました。毎日、読売、朝日、河北、産経を全て回ってお願いしました。その心意気を買ってくださったようで、皆さん誰も駄目とは言いませんでした。中には、「いくらで」と言う方もいましたが、その方たちにもどうにか頼み込みました。

(針生様)
2号目を印刷する時には電気が点いていて印刷機も動きました。紙はB4でないと新聞に入らないと言われたので、探してみたところ、偶然建設部で取ってあった用紙がありました。必ず後でお返しするので使わせてくださいと頼んで、夜まで掛かって印刷しました。新聞なので何時までに届ければ翌日の新聞に間に合うかをノートに書いておきましたので、それまでに全部の専売所に足を延ばしました。
 折り込みを頼んだのは2号だけです。3号以降は業者さんと連絡が付くようになったので、来て頂きました。

(聞き手)
配布は手伝ってもらったのでしょうか。

(針生様)
はい。町内会の機能が回復していない所は高校生ボランティアにお願いしました。

(片山様)
 1号は完全に、多賀城市の被害の少ない人に被害の様子を知ってもらうというコンセプトでした。皆さん大変だとは思いますが、津波がなかった地区の市民の方に、手伝ってもらおうという気持ちになってもらえれば良い、惨状をまずは伝えようと、全戸は無理でも配布する事にしました。

(針生様)
 気を使った事として、号外という言葉にしないようにしました。広報誌の号外は皆さんに届けなければいけないので、それは止めようという事にしました。全員には届けられない事を前提に、徐々に沢山の人に届けられるようにするためにはどうすればいいのか考えました。新聞に折り込んだら、今度は新聞を取っていない方には届かないとの意見を受けたので、そこでスーパーや保育所に、新聞を取っていない方に配ってくださいと頼んで置いてもらいました。
 一部の人にしか届かないというのは一番弱いところです。それでも構わないと思って配布して、3号目の時にやっと通常の区長さん経由という配布方法を取れました。その時にも、いつの間に3号まで出たのかとお叱りを受けましたが……。ただ、開いていた店などでは、どこに行っても、災害情報誌の設置を断られる事はありませんでした。快く置いてくださり、店で掲示して頂いたりしました。

(聞き手)
 防災対策における問題と課題は、どのようなものだとお考えですか。

(片山様)
 また地震が来たら多賀城市は大丈夫なのか、それが大きな課題です。マニュアルは見ていませんでしたし、避難所の名簿の作り方もマニュアルに書いてありますが、みんな勝手な形で作ってきました。なので、避難者名簿の整理はとても大変でした。ですがそれも写真に撮ってネットに流す事によって、県外や遠くにいる人が安心出来るのではないかというような事をその場その場で考えました。地域防災計画などには、まだ市民や職員が提出した意見が形になっていないので、この状態でまた震災が来たら大丈夫かという箇所が一番の課題だと思います。

(針生様)
 マニュアル通りにいく事はほとんどありませんが、基本的な対応を押さえた上で、その時に自分たちの裁量内で動けるための基礎を作る事が必要だと思います。私も広報担当として、しなければいけない事は何かを係の中で出し合って、それを防災部門に提出しました。

(聞き手)
 各課や係での個別マニュアルを作るようなお話はありますか。

(片山様)
 例えば、地域コミュニティ課では、電源確保をして、ホームページを運営するためのマニュアルなども作って、訓練もしています。全体のマニュアルでは載せられない細かな内容もあるので、本格的な課別マニュアルを作りたいと思っていますが、社会福祉課などはやるべき業務の種類が多様なので、それが出来るか心配しています。震災対応の引き継ぎを、業務と同じように引き継いでいくべきだと思っています。

課題は「教訓の日常化」

(聞き手)
 今回の経験から、後世に伝えていきたい教訓はありますか。

(片山様)
 あのような思いを二度としないために、忘れずに対策を考えないといけない事だと思っています。伝えたい教訓は沢山ありますし、少し話せばもっと増えるでしょう。新しく入庁した職員へ、経験していない、実感出来ないこれらの思いや対応の仕方をどう伝えていくのかは、やはり、経験していないととても難しい事だと最近とみに思うようになりました。
 残す事、伝える事も大変ですが、平常時にそれらの教訓をどこまで残して、日常化出来るかが課題です。平時からしている事だから、非常時に繋げる事が出来るのです。

(針生様)
 もし同じ事が同じように起きた時、自分が同じ所にいれば、もう少しうまく対応出来ると思います。その時に出来る事を後回しにしないように、衛星携帯も新年度に入る前に用意しました。先延ばしせず、考えうる事はするようにしました。今出来る事、考え付いた事を逃さずに行わねばならないと感じるようになりました。視野を広く持ち、住民の方の事を考えながら市役所の事も考え、それをどう広報していくか、その事に最初から気を付けていれば良かったのかもしれません。

(聞き手)
 これまでの質問以外の内容でも構いませんので、話しておきたい事がありましたらお願いいたします。

(片山様)
 私が市役所で働いている時にこんな震災があるとは思ってもいませんでした。188人もの方が亡くなりましたが、今後もし震災などが起こった時には1人でも被害者を少なくするのが、大事な仕事です。そのために買い揃えなければならない物は揃えましたが、形だけでなく、私たちがそれらを使った行動で形にしていく事が一番大事な事です。それをどこまで出来ているのだろうかと、この2年半で感じています。平成23年4月7日の大きな地震や平成24年12月の地震などでは、以前よりもずいぶんと対応速度が上がっていました。それ自体は喜ばしいことですが、東日本大震災の記憶が風化し始めているのではないかとも思います。まずは私から行動に移して、それを少しずつ普及させていけば、街も、市民の方の意識もより良くなると思います。

(針生様)
 地域コミュニティ課に所属していた時に課長からよく言われたのは、「何故この仕事をするのか考えてください」という事でした。今回の震災で友好都市の方たちなどにとても助けて頂いて、そうした繋がりをあらかじめ作っておく事が大切なのだという事に改めて気付かされました。広報の仕事にしても、その時に何故それをするのか考えれば、もっと良く仕事をこなせたのではないかと、震災を通して感じました。